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kazu
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東京から奈良に越してきました。
奈良市に住んでいます。

2014年06月03日

今日のコラム

☆6月3日 測量の日
お早うございます、今日もお立ち寄り有難う御座います☆


6月3日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

自然に学ぶ

 自然の営みには私心もなければ、とらわれもないと思います。言ってみれば文字通り素直に物事が運び、素直な形でいっさいが推移していると思うのです。一輪の草花にしても、私心なく自然に花を咲かせているのです。そういった花の姿をみて、もちろん何も感じない人もいるでしょう。しかし、素直な心になりたいという強い願いを持っている人の場合には、あるいはそこに何らかのヒントを見出すかもしれません。

 そういうことを考えてみると、お互いが素直な心を養っていくための一つの実践として、大自然の営み、自然の姿というものにふれて、その素直さに学んでいくということも大切だと思います。


【コラム】筆洗

2014年6月2日東京新聞TOKYOWeb

▼衰弱死」とは恐ろしい言葉だが、それでさえ持って回った言い方でそれはやはり「餓死」なのだ。神奈川県厚木市のアパートで五歳の男の子の遺体が発見された。父親に放置された。食事も与えられなかった。部屋に閉じ込められていた

▼想像する。そのひもじさ、のどの渇き。戦争中でも、飢饉(ききん)でもない。豊かで安全と胸を張る日本で子どもがおなかを空(す)かせて死んでいく

▼父親は供述する。「二〇〇六年秋ごろに家に戻ると子どもが死んでいた」。いつ息絶えたのかも分からない。独りぼっち。散乱し恐らくは真っ暗だった部屋の中で五歳の子が呼吸をやめる

▼孤独は骸(むくろ)になっても続く。発見されるまで七年半。この子の声は生きている時も、生きていない時も、誰にも届かない

▼親や行政の不手際を責めるのはたやすいが、五歳の子ども一人さえ救えぬ世の中をつくり、看過してきたのが日本人であるならば、この子の死に日本人全員が痛みを覚え、腕組みをして「この国はおかしい」と考えるべきではないのか

▼「いるはずなのに、いない子ども」がまだ七百余人いる。捜さねばならない。「たがいの命を大事にしない思想など、思想と呼ぶには価(あた)いしません」(井上ひさしさん作『組曲虐殺』)。「思想」を「国」に置き換え考える。見つけなければならぬ七百余人はわれわれ自身である。日本という国そのものである。

☆ 今日も暑いそうです、水分を補給して、熱中症に気をつけましょう。今日も皆さまにとって良い一日でありますように ☆
  

Posted by kazu at 05:42Comments(0)