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kazu
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東京から奈良に越してきました。
奈良市に住んでいます。

2014年03月21日

今日のコラム

☆ お早うございます。今日もお立ち寄りありがとうございます。☆

3月21日 松下幸之助一日一話 (松下幸之助.COM)

春を楽しむ心

 草木は芽を出し、蕾はほころびて伸び伸びと成長する春の季節。春はまさに万物成長のときと言えるでしょう。

 私たちもこんな春を迎えて、大いにこれを楽しみ、大いに成長していかなければならないと思います。春を楽しむ心は、人生を楽しむ心に通じます。長い人生には、ときには不愉快なこともあり、面白くないときもありますが、春を楽しむように人生を楽しむ心があるならば、やがてまた春のそよ風のように、心もやわらいで、生き甲斐も感じられてきます。そして野山の樹々が一年一年と年輪を加えていく如く、お互いの心も、去年よりも今年、今年よりも来年と一年一年成長していくと思うのです。


【コラム】筆洗

2014年3月20日 東京新聞TOKYOWeb

▼神は、ご自分にかたどって人を創造された。土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込んで…。旧約聖書が語る人類誕生のありようだが、神さまが土をこねて人間をつくりだすという神話は、世界各地に伝わっているという

▼人間が自分に似せて、土で形をつくる。人形作りは、太古から続く人間の業だが、縄文の土偶は世界で最も古いものかもしれないそうだ

▼いや土偶だけではない。大英博物館のマクレガー館長は『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)で縄文時代の壺(つぼ)について書いている

▼<世界で最初の壺は日本でつくられた>。そしてそれを使って煮炊きした日本こそは、<どうやらスープの発祥の地であり、シチューの祖国のようだ>と

▼こういう館長が率いているだけあって、二〇〇九年に大英博物館で開かれた特別展「土偶の力」は、見事なものだった。七十点以上が並べられた中でも、主役扱いされたのが、長野県茅野市で出土した国宝「縄文のビーナス」と、近々国宝に指定される「仮面の女神」だった

▼マクレガー館長は、こうも書いている。<ほとんどの国は海外で自国を紹介するときに、帝国時代の栄光や侵略軍だった時代を振り返る>。だが経済大国日本は、驚いたことに太古の技術の高さと美的洗練を紹介する。<これはじつに説得力がある>と。世界に誇るべき創造の女神なのだ。

☆ 春分の日です。今日も皆様にとって良い一日で有りますように ☆
  

Posted by kazu at 06:17Comments(0)

2014年03月20日

今日の思い出

☆ 平成7年3月20日の今日は忘れる事の出来ない日です。

地下鉄サリン事件です。

もう、19年になるのです。

自分も乗る電車でしたが都合でJRに変更したので助かりました。

東京にいる時は、良く仕事などで使う駅でした。

何時もあの日のことは思い出します。

この事件でお亡くなりになられた方にご冥福をお祈りいたします。被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。今日も皆様にとって良い一日で有りますように ☆  

Posted by kazu at 07:54Comments(0)

2014年03月20日

今日のコラム


☆ お早うございます。今日もお立ち寄りありがとうございます。☆

3月20日 松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

まず自分から

 反省を求める者には反省を求める、また自分たちにおいて反省すべき点があれば、大いに反省して協力体制をとってゆく。そういうことを誰かが言い出し、誰かがやらねばならないのに、誰もが非常な安易感に浸ってしまって、成りゆきまかせ、他人まかせになってしまっている。それが日本の現状でしょう。これでは物事は好転していきません。きょう一日が過ぎれば、あすはあすの風が吹くだろうというような、事なかれ主義はいつか行き詰まります。

 お互いに全体として考え直そうという行き方を“誰か”ではなく、まず自分が生み出さなくてはならないことを深く自覚すべきだと思うのです。


【コラム】筆洗

2014年3月19日 東京新聞TOKYOWeb

▼散歩の犬が突然の強い風に目を細める。十八日関東地方に春一番が吹いた。立春過ぎても、なかなか暖かくならないと思っていたら、昨年より十七日も遅いそうだ

▼「暦の上の春と、気候の春とはある意味では没交渉である」と物理学者の寺田寅彦は書いたが、二月四日の立春と体感できる「春」の訪れはだいたい一カ月はずれているか。春一番が吹き、そろそろ桜かと思えるようになって「春」を感じる人が大半だろう

▼春一番はもともと、標準語ではない。瀬戸内海や壱岐の島方面の漁民の間で使われていた言葉だったという。山本健吉さんの「ことばの歳時記」に教わった

▼別の研究によると春一番を使っていた地域はもう少し広くて、能登、志摩以西とある。戦後、新聞が使いだして急速に広まった

▼「待ってました」と声を掛けたくなる、前向きで力強い語感。広く愛された理由かもしれない。学者や役人の専門用語ではなく、自然と絶えず向き合う漁民の言葉が痛快でもある

▼立春と春一番の間ずいぶんと気の落ち着かぬ話が続いた。クリミア情勢、行方の分からないマレーシア機、千葉の連続殺傷事件。ゴースト作曲家、信用を失いつつある万能細胞研究。ベビーシッターの問題。漁師たちは古来、「春一番」を海難への警戒の気持ちも込めて使っていたようだが、重い空気を吹き飛ばす南風であってほしいものだ。


☆ 平成7年の今日は忘れる事の出来ない日です。地下鉄サリン事件です。自分も乗る電車でしたが都合でJRに変更したので助かりました。この事件でお亡くなりになられた方にご冥福をお祈りいたします。被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。今日も皆様にとって良い一日で有りますように ☆


  

Posted by kazu at 06:56Comments(0)

2014年03月19日

今日のコラム


☆ お早うございます。今日もお立ち寄りありがとうございます。☆

3月19日 松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

日本の資源は人

 日本の資源は人そのものです。いま日本から人を五千万人も取ったら、日本はまいってしまいます。人が多いのは資源の多い姿です。しかも、普通の資源であったらじっとしていますが、人間は働きます。一方で費やすという点もありますけれど、やはりそれ以上のものをつくり出すものを持っています。われわれは、この人間が資源であるということをはっきりと認織することが大事だと思います。また人間という無限の資源を持っているのだということをもっと教えなければいけないと思います。

 もちろん人が多いというだけではダメで、その質をよくすることが必要なのは言うまでもありません。



 【コラム】筆洗

2014年3月18日東京新聞TOKYOWeb

▼遠くの親戚よりも近くの他人とはよくいったもので、いざというとき、頼りになるのはいつも顔を合わせ、言葉を交わす隣近所である

▼付き合っていればどんな人かだいたいは分かる。その人が信用できるか、できないかも見当は付く

▼埼玉県富士見市の部屋で二歳の男児が亡くなった。横浜市の母親がインターネットを通じてベビーシッターを探し、ある男に子どもの世話を依頼したという。子どもを預かる場所が不足している今の時代、ネットでベビーシッターを探すということもあるのだろう

▼母親は男の名字とメールアドレスしか知らなかったという。住所どころか、顔も知らない。素性も分からぬ人間に子どもをなぜ預けたのかというのはたやすいが、ネットに依存しやすい風潮を考えた場合、何となく想像もつく

▼ネットに慣れた世代は、時に煩わしさを伴う近所付き合いのような生身の人間の関係よりも、ネット上の関係の方が気楽に思えることが確かにある。付き合いの浅い分、言いたいことが言える。面倒になれば、回線を切ればいい

▼遠くの親戚よりも近くの他人よりも、楽で簡単で顔の見えないネットのサービス。逆にいえば、これほど人間味に欠け、危険な世界はないが、人間はそのことを忘れつつある。目を背けている。まっとうな生身の人間関係をどう取り戻すか。それこそが、最大の問題であろう。

☆ 今日も皆様にとって良い一日で有りますように。☆ 

  

Posted by kazu at 05:55Comments(0)

2014年03月18日

今日のコラム

☆ お早うございます。今日もお立ち寄りありがとうございます。☆

3月18日 松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

年功序列と抜擢

 それぞれ長短のある年功序列、抜擢をどのように行なっていくかということは、それぞれの企業の実態、情況により一概には言えないと思うが、私自身について言えば、だいたい年功序列七十%、抜擢三十%というような感じでやってきた。これが反対に年功序列三十%、抜擢七十%になると非常に面白いと思うのだが、それはやはりまだ先のことで、今日の日本においては、年功序列を主体としつつ、そこに適度に抜擢を加味していくことが無理のない姿だと思う。

 しかし考えてみれば、抜擢の何十%かは賭けである。だが、ときにはあえてその冒険をおかす勇気を持つことが、企業発展の上で求められている時代であると思う。

【コラム】筆洗

2014年3月17日東京新聞TOKYOWeb

▼ どんなに筋の通らない不出来な台本であっても、ちゃんとした一本の、しかも、それなりの芝居をこしらえる方法がある。劇作家の坂手洋二さんが教えてくれた

▼そのままの台本では芝居にはならない。そのひどい台本を孫が書いて祖父に送ってきた、という設定にする。祖父とその友人が読んで、けなしつつ、実際に演じてみせるという展開にすればどうか。「ひどいねえ」「ああ、ひどい台本だねえ」。そんなせりふが続く。どんな台本でも成立する。元の台本がひどければひどいほど、面白くなるかもしれない

▼もちろん、冗談だが、この話を聞いて思い出すのは「根岸の里のわび住まい」である。有名な「万能句」。この句の頭に季語を含んだどんな五文字を加えてもそれなりの俳句ができるという。例えば「うぐいすや」と加えてみる。不思議とそれらしく聞こえるのである

▼短歌でいえば「それにつけても金の欲しさよ」という下の句。戦国武将で歌にも通じた、細川幽斎の作ということになっている

▼長い歴史のある、「万能句」だが、実際のところ、これをコピー・アンド・ペースト(コピペ・切り貼り)して、俳句や短歌をこさえる人はあるまい。楽しくないし、創作の喜びとは無縁であろう

▼ばれなくても、自分が何をやったかはよく分かっている。苦しむ。ひどい俳句をつくった方が、よほどましなのである。

☆ 今日も花粉が飛んでいます。今日も皆様にとって良い一日で有りますように ☆
  

Posted by kazu at 06:53Comments(0)

2014年03月17日

今日のコラム


☆ お早うございます。今日もお立ち寄りありがとうございます。☆

3月17日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

修養に場所を選ぶな

 人は若い間の心がけのいかんにより、後にずいふん差の生ずるものである。もし若い時代に自己実力の養成に励まず、修養に努めなかったならば、必ず後年、後悔するときがくると思う。

 しかるに若い人の間で「この仕事は自分の性分に合わない、あの主任の下ではどうも働き甲斐がない」と、不足をもらす人がある。これは自己中心の物の考え方の弊害であろう。

 真に自己の適所を見出すまでには、いろいろな経験を積まなければならない。また性格、意見の異なった指導者の下で自己を磨くことによってこそ、かえってよりよく修養が得られるものであることを、深く知らなければならないと思う。


【コラム】筆洗

2014年3月16日東京新聞TOKYOWeb

▼真面目な正義の人。どんな役柄にもそんな印象が強く残っている。俳優の宇津井健さんが亡くなった▼「ザ・ガードマン」や山口百恵さんと共演した「赤い疑惑」など、昭和のテレビドラマの歴史に大きな足跡を残した

▼「赤い運命」(一九七六年)の子どもを取り違えられてしまった父親の役を覚えている。宇津井さんに対し、敵役の三国連太郎さんが何と憎らしかったことか。みけんにシワを寄せる宇津井さんの深刻な芝居や、ドラマの分かりやすい展開を思い出すと、昭和の日々が戻ってくる

▼俳優座養成所で同期の仲代達矢さんは「暗い役が多い自分に比べ、明るく健康な青年を演じていた」と回想する。なるほど、仲代さんの「凄(すご)み」や、同じ三一年生まれの高倉健さんの背負った「苦悩」「忍耐」や勝新太郎さんの「色気」「狂気」。いずれも宇津井さんは持ち合わせていない

▼宇津井さんの良さは迷いのない「善」である。堅苦しいほどの正しさ。良い夫で良い父親。苦しくとも真面目に生きていれば、きっと幸せになれる。いいことが待っている。そんな宇津井さんの役柄は成長期の昭和という時代全体が醸し出す空気にぴたりと合っていた気がする

▼何が正しいのか。これからどうなっていくのか。価値や方向さえも分かりにくい現在にあって、宇津井さんの死が無性に寂しい。どうも後ろばかりを振り返らせる。


【社説】東京新聞TOKYOWeb

週のはじめに考える 「秘かな侵略」は通らない

2014年3月16日

◆ロシア軍によるクリミア支配を欧米メディアは「秘(ひそ)かな侵略」と呼んでいます。聖火の陰に隠れるかのような武力行使が許される筈(はず)はありません。

 「ロシアの行動は一九三〇年代のナチスを想起させる」

 ウクライナ南部クリミア自治共和国の支配を着々と進めるロシア・プーチン政権に対して、こう警告したのは、クリントン前米国務長官です。
◆聖火と戦火の交錯

 ヒトラーを持ち出す手法は手垢(てあか)に塗(まみ)れた感もありますが、次期米大統領選の有力候補がこう指摘せざるをえないところに事態の異常さを見るべきでしょう。

 三六年のベルリン五輪は、今回と同様聖火と戦火が交錯した年でした。ナチスの一党独裁は当時すでに進んでいましたが、相対的な緊張緩和の一時期に、各国は代表を送り、大会は奏功しました。その模様を当時の撮影技術を駆使して制作したレニ・リーフェンシュタール監督の映画「民族の祭典」は広く知られています。

 二年後のミュンヘン会談を経て、ドイツ系住民保護を名目にドイツがチェコ・ズデーテン地方を併合した事例は、独裁者に対して国際社会が宥和策(ゆうわさく)を採ったため犯した歴史的汚点として繰り返し言及されています。

 今後を占う上でより示唆に富む事例といえば、九〇年代、冷戦終結直後から吹き荒れたユーゴスラビア紛争でしょう。そこには、際だった共通点と相違点があります。

 共通しているのは、バルカンとウクライナという、大国の緩衝地帯にある国家が被りがちな悲劇です。外からはロシア、欧州、トルコなど周辺大国間の抗争に運命を左右され、内には多民族、多宗教、多言語が同居する不安定さを抱えています。
◆ウクライナ軍の自制

 民族自決権はどこまで認められるか、との難問を国際社会に突きつけている点も大きな共通点でしょう。国内に少数民族問題を抱えるすべての国が直面している悩ましい課題です。

 一方、最大の相違点は、秩序の決定的な担い手たる軍の動向です。ユーゴでは当初「連邦軍が自国民に銃口を向けることはあり得ない」との楽観論が支配していました。現実には、独立を求める連邦内共和国と、それを阻止するため武力行使に踏み切ったユーゴ連邦セルビア軍とが流血を繰り広げ、戦火はスロベニアからクロアチアへと拡大。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、犠牲者二十万人、難民二百万人以上を生む凄惨(せいさん)な内戦に陥ったことはまだ記憶に新しいところです。

 ウクライナ危機では、見通しの立たない混迷のなか、軍が終始自制を保ちました。政変後も、暫定政府がクリミアでの軍事行動を発動しないことを表明し、平和的解決への意思を鮮明にしています。反政府運動では約百人に及ぶ犠牲者が出ましたが、武力を行使したのはヤヌコビッチ政権時の治安部隊が主でした。

 ユーゴ紛争は、セルビア国内に最後まで残されたコソボの独立でようやく終息に向かいました。ロシア政府は今に至るも承認していませんが、コソボ独立は、国際司法裁判所でも合法との判断を得て、国際社会で民族自決をめぐる一定の到達点とされています。

 ロシア政府は、ロシア編入の是非を問う住民投票など、クリミア支配を正当化する根拠の一つとしてこのコソボの例をあげていますが、そのためにはコソボを承認しなければならない自家撞着(じかどうちゃく)に陥っています。

 チェコスロバキアの民主化を弾圧した旧ソ連時代の「プラハの春」まで遡(さかのぼ)るまでもなく、ロシアには民主化を求める声を力で押さえ込んできた歴史が一度ならずあります。理念を欠く力の支配が自家撞着に陥り、結局は潰(つい)えることは歴史が明らかに示しています。

 クリミアからは地元放送局閉鎖や記者への暴行など、報道の自由を脅かす事例も伝えられ、懸念を抱かざるをえません。
◆歴史の立ち位置誤るな

 欧州全体の秩序に関わる基本原則を協議する枠組みに、七〇年代から続く欧州安保協力機構(OSCE)があります。

 基本文書とされるヘルシンキ宣言は「主権の相互尊重」や「領土の一体性に対する武力行使や威嚇は控える」ことをうたっています。ロシアは、自らその設立に貢献したOSCEの精神に戻るべきでしょう。

 ウクライナの政治的意思決定はウクライナ人の手に委ねる。この当たり前のことを大国の指導者が再確認することが解決への一歩です。その大前提を武力で覆す試みは「歴史の立ち位置を誤る」(オバマ米大統領)ことを自覚するべきでしょう。

☆ 今日も皆様にとって良い一日で有りますように ☆

  

Posted by kazu at 07:18Comments(0)

2014年03月16日

今日のコラム


☆ お早うございます、今日もお立ち寄りありがとうございます ☆

3月16日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

六十%の可能性があれば

 ある仕事をある人にしてもらう場合、その人が適任かどうかということがきわめて重要ですが、実際には、それはなかなかわかりません。

 それではどうするかということですが、この人だったらまあ六十%ぐらいはいけそうだなと思ったら、もう適任者として決めてしまうのです。八十点までの人を求めるということも不可能ではないでしょうが、しかしそれには非常に時間と手数がかかります。だから、これならまあ六十点ぐらいはあるなと思ったらもう、「君大いにそれをやってくれ」というようにするわけです。するとたいていうまくいくのです。全部が全部ではありませんが、中には百点満点ということもあります。


【コラム】筆洗

2014年3月15日東京新聞TOKYOWeb

▼酸に浸す。細い管に通す。そんなことだけで、既に死への一本道が決まっていた細胞の記憶が初期化され、何にでもなれる万能細胞になる。決まり切ったような人生ですら、苦汁を飲んだり狭き門をくぐったり、試練と向き合うことで、豊かな可能性を取り戻せる…。STAP細胞の発見は、そんな人生訓すら思わせるものだった

▼この大発見が公表された時、英国のある科学者はこんな疑問を呈していた。「ではなぜレモンやコーラを口にしても、細胞の初期化は起こらないんだろう?」

▼冗談めかした疑問だが、これは根本的な問題提起だ。紅茶程度の酸に浸したりするだけで、どうして万能細胞ができるのか。そんな奇跡のようなことが起きる生命の神秘の奥深さ

▼本当にわくわくする謎への扉を開け、「生物学の常識を覆した」とも称されたSTAPだったが、残念ながらその「世紀の論文」作成のありようは、非常識なまでにずさんだったようだ。ずさんどころか、実験結果のでっち上げまでもが疑われている

▼難病に苦しむ患者さんたちに希望をもたらすはずの再生医療に貢献するはずの研究室で、研究倫理そのものの再生が求められるような事態が起きてしまったことは、悲しいとしか言いようがない

▼西欧の格言に曰(いわ)く「成功には多くの父がいるが、失敗はみなしごである」。今回の失態を孤児にしてはいけない。

☆ 今日も花粉が飛んでいます。今日も皆様にとって良い一日で有りますように ☆
  

Posted by kazu at 06:16Comments(0)

2014年03月15日

今日のコラム

☆ お早うございます、今日もお立ち寄りありがとうございます ☆

3月15日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

会社の力を見きわめる

 私は常に自分の会社の自己検討ということをしています。要するに新しい一つの仕事を始めるにしても、それは考えのうちに入れておくだけですぐには手をつけません。きょう手をつけるのは、きょうの自分の食欲に合ったものだけです。それ以上はいくらおいしくても食べません。それが自分の腹であれば、うまく調節できますが、事業欲は食べすぎても調節するものがありませんから、ただ自分の良識によって調節するしか方法がありません。だから常に自己反省をして、あわせて会社の総合力を検討し、それにふさわしい仕事をしていこうと心がけています。そこを見きわめることが、経営者として、非常に大事なことだと思います。

【コラム】筆洗

2014年3月14日東京新聞TOKYOWeb

▼殺人事件が起きた。犯人はだれか、さまざまなうわさが飛びかった。地道な捜査で容疑者と犯行現場は特定できたが、犯行の手口が分からない。刑事らが頭を抱える中、科学捜査のプロがついに実験室で、その手口を再現してみせる…

▼恐竜絶滅という地球史の大事件を犯罪ドラマ仕立てにすれば、こんなところだろうか。事件発生は六千五百五十万年前。被害者は恐竜はじめ動植物の種の五割以上。容疑者は巨大隕石(いんせき)で、直径百八十キロのクレーターが見つかったメキシコのユカタン半島が現場だ

▼では、なぜかくも多くの生き物が一気に死に絶えたのか。千葉工業大学の大野宗祐さん(36)らが実験で確かめた「手口」は衝撃的だ。衝突現場には硫黄を含む岩石が豊富にある。この岩に隕石と同じ速度で金属の弾を撃ち込むと、硫酸になりやすいガスが生じることを突き止めた

▼衝突の数日後からタンパク質を溶かす強烈な酸の雨が降り注ぎ、海も酸性化して食物連鎖を下支えするプランクトンすら死滅させたというのだ

▼隕石はたまたまユカタン半島に落ちたにすぎない。他の所に衝突していたら、酸性雨は降らず、恐竜の世が続き、人類も生まれなかったかもしれない

▼いま海は炭酸ガスのため酸性化が進んでいる。新たな大量絶滅の危機ともいわれる。この現在進行形の「殺人事件」の犯人がだれかは、捜査するまでもない。

☆ 今日も花粉が飛んでいます。対策しておでかけ下さい。今日も皆様にとって良い一日で有りますように ☆  

Posted by kazu at 06:48Comments(0)

2014年03月14日

今日のコラム


☆ お早うございます、今日もお立ち寄りありがとうございます。☆

3月14日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)

人間疎外は人間が生む

 現代文明における、科学技術の発達によって人間が軽視され、忘れられているということが問題になっています。そういった人間疎外をなくすためには、常に人間の幸せということが前提にされなくてはなりません。「なぜこういう新しい機械を造るか」「それは人間の幸せのためである」ということがいつも考えられ、それに基づく配慮がなされるならば、どんな機械が生み出され使われても人間疎外は起こらないと思います。

 現実に人間疎外のような観を呈しているのは、機械が人間を疎外しているのではなく、人間自身が人間を大事にせず、人間疎外を生んでいるものではないでしょうか。


【コラム】筆洗

2014年3月13日東京新聞TOKYOWeb

▼ケラ、オケラ。無一文の意味ではなく、コオロギに似た昆虫である。やなせたかしさん作詞の歌「手のひらを太陽に」(一九六一年)にも登場する。「みみずだって/おけらだって/あめんぼだって」

▼一九七一年、少年科学誌に「オケラはすごい」という特集記事が掲載されたのを覚えている。その昔は子どもに人気だった

▼オケラは足が速い。飛ぶ。泳ぐ。掘る。鳴く。「おケラの七芸」は「器用貧乏」と同じで良い意味ではないというが、万能選手のオケラはクワガタムシ、カブトムシと並んで愛されたものだ

▼オケラを見なくなった。水田の減少が原因という。物事を途中でやめるという意味の「おけらの水渡り」。『辞書から消えたことわざ』(時田昌瑞(まさみず)著)の中に見つけた。オケラが消えれば、それにちなむ言葉も消えていく

▼『螢三七子(ほたるみなこ)』という懐かしい漫画の題名を三日付夕刊の中で見た。地方都市。製紙工場の建設による環境破壊を描いた。主人公はホタルにこだわっている。「少年マガジン」の掲載は七二年の夏だった

▼読み返して悲しかったのは作品のせいではない。四十年余経過したが、環境よりも経済成長、カネという現実は変わらない。作品はハッピーエンドを思わせるものの、ホタル、オケラどころか、人間の生命よりもカネの時代に三七子の姿がどうしても思い描けない。その現実に途方に暮れる。

☆ 今朝の地震で被害が無いことを祈ります。今日も皆様にとって良い一日で有りますように ☆  

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2014年03月13日

今日のコラム

☆ お早うございます、今日もお立ち寄りありがとうございます。☆

3月13日松下幸之助一日一話(松下幸之助.COM)
よしみを通じて

 最近は商売の上での競争が大変激しくなり、同業者どうしでも、ともすればお互いを競争相手とばかり考えているようです。もちろん競争意織は必要でしょうが、考えてみれば、誰も争うために商売をしているわけではありません。

 ですから、近所に新しく同業者のお店ができたからといって、目にカドを立てるのでなく、おおらかに迎える。新しいお店の方も、先輩に対し謙虚な気持でいわば“仁義”をきる。そういう好もしい姿は、お客さまのお店全体に対する信用を高めることになるでしょう。だから一方で適正な競争をしつつも、同じ道にたずさわるお店どうし、お互いによしみを通じていくことが大切だと思うのです。


【コラム】筆洗

2014年3月12日東京新聞TOKYOWeb

▼<キンツバを頬張った頬ぺたを牡丹餅(ぼたもち)で叩(たた)かれたような>。思い浮かべて笑ってしまう

▼和菓子のキンツバをむしゃむしゃと食べているところを牡丹餅だろうと叩かれれば痛いが、うれしさや楽しさを表現する例えである。劇作家の井上ひさしさんの『国語事件殺人辞典』の中に出てくる

▼叩かれても幸せということがあれば、なでられてもかえって悲しい、苦しいということもある。がんばれ。そんな声をかけられても、もう十分にがんばっている人、どうがんばればいいのかと悩む人には痛みにもなる

▼「俺はこの目で見たものを覚えてることができるし、忘れることができるんだ」。劇作家の飴屋法水(あめやのりみず)さんの『ブルーシート』(白水社・四月刊)。福島県立いわき総合高校の生徒によって同校で上演された。被災者の心の奥底に切り込んだ作品は今年の岸田国士戯曲賞を受賞した

▼「忘れることができるんだ」にはっとさせられる。被災者、被災地を忘れてはならないが、被災者の中には覚えていたくないこと、触れられたくないこともあるだろう。被災者ではない人からの「忘れないよ」という言葉は時に空虚に聞こえているのかもしれない

▼ブルーシートは昔、オレンジ色だった。一九六〇年代前半、業界内の話し合いでブルーにしたそうだ。空の色。さわやかな色。それでも被災地では冷たく見えてしまうことがある。


【社説】東京新聞TOKYOWeb

震災関連死 早い復興こそ最大支援

2014年3月12日

 東日本大震災で被災した人の震災関連死が増え続けている。避難生活や原発事故のダメージが原因で、高齢者や弱者が犠牲になっている。住宅や医療、保健福祉など生活支援を充実すべきだ。

 震災関連死は十都県で三千人となった。避難生活者二十七万人のうち十四万人を占める福島は、千六百七十一人と突出し全体の半数以上を占める。地震や津波による死者数千六百三人を超えた。

 原発事故という特殊事情による。本紙調査では原発からの避難生活や事故に起因した「原発関連死」は少なくとも六割を占める。この十カ月の認定数は岩手、宮城の合計数の五倍近くに上る。

 原発に近い町の高齢者施設では利用者八十八人の四割超に当たる三十六人が震災から一年半余りで亡くなった。原発事故後、利用者は受け入れ先が決まらないまま転々とし、体育館など寒い場所で疲労や心労を重ねた。固く冷たい食べ物や、薬不足などで持病を悪化させ、衰弱していった。

 他の病院ではバスに長時間乗せられた高齢患者が、避難所に到着するまでに大勢亡くなった。

 自力で体調管理が難しい障害者も無理な避難を重ねて命を落とした。死亡率は健常者に比べて高かったとも指摘される。原発事故さえなければ失われなかった命だ。

 震災から三年が過ぎるころ、心の問題はさらに深刻になると、かつての大震災は物語る。

 地域コミュニティーから切り離された仮設住宅では孤立して引きこもりがちになり、アルコール依存やうつ、認知症の症状を見せる人が増えている。生活再建は個人の資力によっても差が開く。

 深刻なのは震災関連死の認定をめぐり、被災三県で差が出ていることだ。認定されると五百万円を上限に見舞金が支給されるが、申請を却下されるケースが相次ぐ。

 認定率の最も高い福島が84%、宮城75%、岩手が最低の57%。死亡が震災から六カ月を超えた場合の認定率は福島38%、岩手12%、宮城4%。時間の壁は、新潟県中越地震後に「六カ月以上たてば関連死でないと推定する」とした長岡基準の影響とみられるが、実態に合わない。

 震災を生き延びた人が苦境に追い込まれて亡くなるのは痛ましすぎる。災害住宅の建設を公共事業の何よりも優先し、医師や保健師を増やして健診機会を増やすことも必要だ。「復興優先」がかけ声倒れにならない、生きる希望をつなぐ支援でなければならない。

☆ 今日は雨の予報です。今日も皆様にとって良い一日で有りますように ☆
  

Posted by kazu at 06:06Comments(0)